はじまり

大学は、言葉を奪う場所じゃないか、と思う。

よく覚えてないけれど、昔のほうが素直にいろいろしゃべっていたな、と思う。なんかおばあちゃんに政治を語っていたし、あるいは学びたての知識を友達にひけらかしていた。でもだんだん、学びが増え、自分を客観視できるようになって、自分の考えがいかに「浅い」かを思い知るようになる。そして、自分の考えを直接表現することにためらいを覚えるようになってくる。

 


 

大学は、といってもまあ法学部しか知らないけれど、その「浅さ」を感じる最たる場所で、いろんな概念を学び、それらを自分の中でせっせと整理する。なるほど、今まで「人は殺してはいけない」と思ってきたけど、それは「生命権」とよばれる「権利」で、憲法に根拠がある。でその「権利」はどのように根拠付けられるかというと、例えば人々の「自由」から始まって、そこから出てくる「法治国原理」は、「権利」を必然的に要請する。そうだったのか。こんな具合である。

別に体系化されるのは概念だけではない。感情もどんどん分解されていく。心理学とは無関係に見える法学・政治学だって、個人の感情をサツマイモみたいな図でモデル化したり、グラフのX軸に落としこんだりする。

こうして、すべてが、自分の直感も、感情も、壮大な体系の中に回収されていく。

 


 

別にだから感情が大事とかなんかそういう話ではなく、単に自分が話しづらくなった、っていう話なのである。

仮に「安保法案に反対だ」と思ったとしても、そんなこと人に言えない。だって、安保法案という具体的な一つの法案の後ろに、どれだけの基礎的な議論が適用されうるのかを知っているし、自分はこれっぽっちもそれを理解していないから。

「怒り」とか「悲しみ」とか感情だったら、言えそうな気がした。だって、それは無条件に正しい。他の人が反論する余地はない。でも、できなかった。もはやその感情さえ、本当に自分が持っているのかよくわからなくなってしまった。なぜって、その感情を生まない思考のルートがあることを、僕は知っているから。

せいぜい自信を持って言えるのは、「この焼鳥はうまい」くらいである。

大学はほんとに消耗する。まあ実際に足を運ぶことは無くとも消耗する。

 


 

結局のところ、自分が見聞きすることを消化しきれていないだけなのであるが、かと言って法治国原理は何年かかっても自分の言葉になりそうにない。多分無理。つまるところ、無理やり僕に言葉を押し付けてくる誰かが悪者なのである。なんとか主義となんとか主義の空中戦は、きっと僕を幸せにしない。それを学ぶことには大きな価値が有ると思うけれど、目下のところ、自分が何を考えていたのか、もっと言えばそれを言語化する前の心の景色を、少し思い出させてほしい。

 

というわけで、ブログを始めます!

こんな投稿することになるとは自分でも思わなかったけど、試験前日にポケモンGOをするのに飽きたから、ということで。今レベル15です。